考へるヒント

生活の中で得た着想や感想

出雲大社と熊野大社

先日、出雲大社に初めて参拝してきた。 

日本が誇る有数の神社であるため、礼を失したり思い残したりすることが無いように、事前に『出雲国風土記』を始めとして10冊ほど出雲大社に関する書物を読んで予習し、準備万端で参った。 

 

 

意気揚々と鳥居をくぐり、立派な社殿の数々、評判の大しめ縄など見るべきところは一通り見て回ったのだが、事前の期待とは裏腹に「大きい」以外にどうも印象に残らない神社であった。挙句の果てには、大社背後にそびえる禁足の山に興味が移る始末である。 

 

社格や歴史は誠に申し分ないのだが、なぜこのような印象になってしまったのであろうか。 

 

あの素晴らしい大社がさほど自分の心を動かさず、印象に残らなかったことが非常にショックで、その後の旅の道中はずっと考え込んでしまった。 

 

皇室とも関連が深く、『日本書紀』『古事記』に綴られる神話の一翼を担うほどの神社が何故平凡に映ってしまったのだろうか。 

 

事前に予習してから詣でたのだが、記紀に綴られている出雲神話がツギハギで、非常にいい加減なものとして映ってしまったからであろうか。 

 

平時は神々への信仰などまるで無いような観光客がこの時ばかりはと好き勝手にお願いをぶちまけているのを見て興ざめしてしまったからであろうか。 

 

飛行機、バスを乗り継いで来たため、昔の参拝客のように自分の足で歩いて参ったという体験が不足していたからであろうか。 

 

奈良の法隆寺を訪問した際に感じた柔和さ、屋久島の山中に分け入って屋久杉を見た時に感じた力強さのようなものをまるで感じなかった。出雲大社には何かが圧倒的に不足しているように思われたし、私の方も大変な準備不足で、大社から何かを感じ取るだけの感度が磨かれておらず、得るものが少なかったのは大変残念であった。 

 

残念ながら「聖域」に足を踏み入れた感覚は皆無であった。 

 

大社東側に併設されている博物館も収蔵品が小粒で期待していたほどのインパクトはなかった。九州国立博物館にて先日まで行われていた特別展「加耶展」で上位互換を見てしまった後だっただけに余計見劣りした感がある。 

 

その一方で、島根県東部、松江市の南、JR松江駅からバスを乗り継いで40分ほどの山中にある熊野大社は実に素晴らしいものであった。 

 



 

意宇川中流域に位置し、出雲大社に比べると参拝客も少ないマイナーな神社であるが、『出雲国風土記』によると意宇群は出雲国国造一族の本拠地があった土地で、熊野大社出雲大社(杵築大社)創建前から存在しており、古代出雲国の生活に根差した信仰、土着の信仰を現代に伝える神社であると言ってよいのではないだろうか。 

 

出雲国大和朝廷に服属した後は大国主神を奉った出雲大社が大きく発展を遂げ、出雲国内の信仰のありようも大きく変容し、熊野大社のかつての勢いは見る影も無くなってしまったようだが、現地に降り立ってみると、静寂の中に山や川の力強いエネルギーをふんだんに感じることができる。 

 

私には熊野大社の方が作られた感じがせず、その素朴で静かな落ち着いた雰囲気と人間の煩悩を感じない清らかさに非常に好感を持った。私は昔から一理屈こねないと済まないタイプなのだが、熊野大社には素直に頭を下げよう、お祈りしようという気持ちにさせられた。じーんと胸に来るものがあって、スピリチュアルなパワーを感じることができた。 

 

目を閉じれば、治水や豊穣を祈ってここに神を奉り、折に触れて詣でたであろう古代の人々の様子がありありと浮かんでくるようであり、大変気持ちの良い神社である。「聖域」と呼ぶにふさわしい。 

 

筆の進むままに任せて更に妄想を膨らませ、口を滑らせてみると、どうも出雲大社はその位置する場所的にパワーやエネルギーを感じないのである。書物で調べ、実際に訪れてみて、出雲大社は人間が政治的理由から何の根拠もない土地に建てた(と私には思われた)ためその土地に神が宿っておらず、ただの後発地域・観光地としか言えないのではないのだろうか。 

 

現に県庁所在地のある松江は、もともと土着の神々が居て古代から栄えていた出雲国東部であるし、山や川といった大地は神と崇められるまでの恐るべきパワーやエネルギーを持っており、それに沿って人の生活が成り立ち、人の往来や町の盛衰、つまり空間が規定されるという力関係、上下関係が働くのではないだろうか。この自然の大いなる力については人の思惑や計画ではそうそう変えることはできないのである。 

 

今回の飛行機のフライトで福岡から出雲までを上空から眺める機会に恵まれたのだが、ほとんどが山(森林)で、人間は海と山の間にあるほんの少しの平野部分に密集して住んでいることを肌で実感し、ますます大地のパワー・エネルギーと人間の営み・生活の関係について興味が深まった。 

 

熊野大社はとても良かった。一方で出雲大社はそうでもなかった」というただそれだけの話が長くなってしまった。