考へるヒント

生活の中で得た着想や感想

國方栄二編訳『ヒポクラテス医学論集』(岩波文庫、2022年)

 

ヒポクラテス古代ギリシャのコス島出身の医者である。医学を魔術やいかさまの世界から救い出し、経験的な科学へと昇華させたことで「医学の父」として認められている。

 

國方栄二に関しては断片的な情報しか得られなかったが、京都大学の非常勤講師を務め、京都大学学術出版会の『西洋古典叢書』の編集者の一人でもあるという。

 

本書が誕生するきっかけについては、巻末の解説や國方のTwitterにて、関西医科大学・森進一教授(故人)のギリシャ語文献の読書会に15年ほど参加したことが発端となったと書いてあった。

 

本文と参考文献欄を見れば、本書が恐るべき仕事であることは一目瞭然であるし、解説の充実ぶりと洗練具合も非常に高い水準であることがわかるが、國方が京都大学の院生時代に藤沢令夫に師事していたということで全て納得した。

 

R・S・ブラック『プラトン入門』(岩波文庫、1992年)を出した内山勝利もそうだが、藤沢門下生はえげつないし、指導教官の藤沢はヤバすぎて言葉がない(語彙力)。

 

「一般に医術は患者を苦しみから解放し、病気の激しい勢いを和らげるとともに、病気に完全に支配された人に対しては、医術で可能なのはすべてだと了解して、手を出さないようにするものである。」(『技術について』)

 

ヒポクラテスは、医術は「技術」であり、健康を維持したり、取り戻すための特別な術として、絶えざる観察と研究が必要だと説く。引用箇所からわかるように、医術はかなり広い定義であり、健康を損なった人が健康を取り戻すために試みるすべてのこと、と言って良いだろう。

 

ただ、内科、整形外科、小児科、産婦人科など何でもやる感じであるが、基本的には投薬や食事療法が中心で手術は無さそうなので、現代の医学の花形とも言える外科は未発達であったようだ。

 

食生活や運動について、様々な病気や怪我について、気候や風土の影響、生殖についてなど、人体について網羅的に記されており、睡眠中の夢と人間の健康状態の関係にまで言及がある。

 

さすが医術をいんちきから科学へと昇華させただけあり、綿密な観察と研究の成果が非常に細かく記載されており、西洋の古代から中世にかけて長らく崇拝されたのもうなずける内容であった。

 

ただ、後世の人々に受容というより崇拝されてしまったがゆえにヒポクラテスの医学が聖域となってしまい、医学は彼が説いた観察や研究の上積みがなされず、長く停滞してしまったのは皮肉である。

 

ヒポクラテスの医学の根本的な思想として、人間の体の自然本性を「血液」「黄胆汁」「粘液」「黒胆汁」の4つに分類し、これらのバランスによって健康になったり苦痛を感じたりすると説いた点が一番の特徴であろう。

 

現代の医学から見れば、ヒポクラテスの医学について内容の妥当性、科学的な正確性は当然ながら相当低い水準にあり、本書から知識として得られるものはない。特に体内や自然環境のメカニズムはかなりの見当違いが多く、病気は瘴気のような「気」(その辺に漂っているようなもの)を人間が体内に取り込むことによって起きると考えているらしかった。その点では近代以降の自然科学は本当に凄いんだなと改めて感じた。

 

ただし、これが当時最高の科学者の態度・知識であり、当時の最先端である点はよくよく留意しなければならない。

 

よく読めばヒポクラテスは現代人よりも人間の体やそれを取り巻く環境への感覚やセンサーが非常に優れているようにも思われる箇所もたくさんあり、なによりこれだけの体感や観察結果を言葉に落としこんで、他人と共有できる形で残したのは本当に凄いことである。

 

さらに、ヒポクラテスは自身の研究成果の報告だけでなく、心得や教育方法など医師となる後進の人々の手引きやお手本になるような記述も多く盛り込んでおり、本書は教科書として非常に優れていると思った。また、医師の身分を国家で保証したり、国家的な医師教育・養成の重要性を説くなど大変先駆的でもあり、「医学の父」と呼ばれるにふさわしい人物であることが随所に伺えた。

 

「食べ物や飲み物は、質がよくても不味いものよりも、少しくらい質が悪くても美味しいもののほうを選ぶべきである」(『箴言』)

 

何気ない一文であるが、「美味しく食べる」重要性は現代の私たちもかみしめてよいだろう。

 

本を読んで感動することは少ないのだが、久しぶりに魂が震えている。「これぞ岩波だ!」という仕事である。ヒポクラテスにも、國方栄二の研究者としての力量にも、本書を出す眼力のある岩波にも、全方位に感動した。本来ならギリシャ語やラテン語、フランス語、英語などに通じていなければならないが、日本語で読める機会が用意されていることは本当に素晴らしい。

 

参考文献に載っていた坂井建雄『医学全史』(ちくま新書、2020年)は完全に見落としていたので、追加で購入。坂井建雄の他の著作もかなり面白そうなので随時買い足していきたい。