考へるヒント

生活の中で得た着想や感想

坂井建雄『人体観の歴史』(岩波書店、2008年)

 


めちゃくちゃ面白い。今年読んだ本の中ではプラトンの各著作に並んでぶっち切りで良い本だった。

 

人類がその時々で人体という対象をどのように見ていたか、客観的に見ていたかについて考察した本である。一読して印象深かったのは、解剖学の長い停滞であった。身体を解剖しても、何がどうなっているか、位置関係やはたらきを解明するのは容易ではない。生きた人間の解剖はリスクが大きすぎるため、死体を扱うしかないのも大きな制約である。先人たちの気の遠くなるような忍耐と執念の蓄積、重みを感じることができた。

 

その他に印象的だったのは、やはり坂井が挙げていたキーパーソン、2世紀のガレノスと16世紀のヴェサリウスの二人である。死体の入手が難しく、手に入っても防腐処理も困難だったため、動物の解剖がメインとなってしまったガレノスは、多くの誤りを後世に伝えてしまったものの、自ら解剖を行い、記録や考察を残した点は素晴らしい。

 

ヴェサリウスについては、ガレノスの解剖学(動物メイン)を継承しつつ、自身の解剖(人体)の所見を加えて、1000年以上停滞していた人体の研究が飛躍する原動力になった点が素晴らしいと思う。それまでは、既知の解剖学的事実を確認するために解剖するという伝統だった。

 

しかし、権威の著作に何が書かれているかよりも、解剖を通して人体の中に何が見出だせるかが関心を集めるようになった。人体を自らの手で解剖し、自らの眼で観察するという実証主義が広まったのである。ヴェサリウス以後の解剖学は、より正確な人体の知識を求めて、細胞の発見→分子の発見と、どんどんミクロの世界に入り込んでいく。

 

解剖学、ひいては人体を見る眼や意識の変遷には、印刷技術の発明と発達も見逃せない。パピルスしかなかった時代は、本は巻き物の形式で、口述のメモのような役割だった。その後より丈夫で長持ちする羊皮紙が使われるようになってからは、本は巻き物から冊子体に変わり、だれでも参照できる情報の貯蔵庫として機能するようになった。

 

15世紀にグーテンベルクが発明した印刷技術によって、羊皮紙に手書きされていた写本が印刷本に変わり、同じ本が簡単に複数部作れるようになり、本は情報伝達の道具として活躍するようになった。加えて、木版や銅版による版画技術の開発により、解剖図入りの解剖書の製作・出版が可能になった。

 

新しい印刷技術と版画技術を駆使して出来上がった解剖図入りの解剖書であるヴェサリウスの『ファブリカ』『エピトメー』は、多くの学者や医師、学生らに読まれ、解剖学や人体の研究は一気に最先端の学問に躍り出て、流行ることになった。その後の解剖学の変遷、機械哲学や生理学などさらに細分化していき、私はとても追いきれなかった。

 

最終章に日本の医学史、解剖学史も載っていて良かった。日本の解剖学は江戸時代から一気に進んだのは何となく知っていたが、死体解剖保存法が1949年され、人体解剖が初めて法的に位置付けられたとあって非常に驚いた。また、献体法が成立したのも1983年となっており、そんな短期間で現代はよくこんなに高水準の医療になったなあと驚いた。

 

キツい言い方をすれば、日本の解剖学は西洋医学を江戸時代や明治時代に移植した急ごしらえのものでしかない。まだ日本人による日本人の遺体の解剖、実際の献体の解剖の数が西洋ほど積み上がっていないことは認識しておくべき課題である。

 

余談だが、どこの大学も医学部がおおむね一番偏差値が高い理由が何となく見えたような気がした。人体を理解し解明していくには、普通とは別次元の発想や知識、応用力が要求されることがよくわかった。