考へるヒント

生活の中で得た着想や感想

黒木登志夫『iPS細胞 ― 不可能を可能にした細胞』(中公新書、2015年)

 

黒木登志夫は、東京大学および岐阜大学の名誉教授で、がん細胞の研究が専門。岐阜大学では学長、そして日本癌学会の会長も務めるなど、日本の医学会のドンの一人と言って良い人物と思われる。本職のがん以外にも医学や研究に関する一般向けの本をいくつか執筆しており、啓蒙活動にも意欲的な人物。

 

本書は一般人に医学の最先端の実情を見せてくれるものすごく良い本ではないだろうか。2015年刊行なので、進歩著しいこの分野では内容が古くなってしまっている箇所も多いだろうが、多くの原著論文を参照し、また山中伸弥先生を始めとして国内の多くの研究者にインタビューも行って書かれた意欲作である。

 

iPS細胞ができるまでの医学のあゆみ、iPS細胞の現在地、これからの可能性などiPS細胞にまつわる全てが一冊にまとまっていて大変素晴らしい。テレビのニュースや新聞記事などで何となく「良い感じの万能細胞があるんやなー」と見知っていた程度だったが、詳細がよくわかった。

 

山中伸弥先生の伝記的な章もあるのだが、ゴリゴリの研究者から見た山中先生、同じ医学研究者という身内から見た山中先生が書いてあって、それも面白かった。

 

iPS細胞の科学的な側面については、高校の生物で止まっている私のわずかな知識では到底歯が立たなかった。ただ1点印象に残っているのは、ヒトのiPS細胞ができたということは、ヒトの体外、シャーレの中で病気の再現が可能になるということであり、ヒトの身体に対してさまざまな実験や観察が行えるようになる点が特に印象的だった。

 

発症のメカニズムがわかれば治療や予防への道が開けるので、このような豊かな可能性を持った細胞が日本で開発されたのは本当に喜ばしいことであり、勝手に誇らしい気持ちになった。

 

黒木はiPS細胞の現在地と可能性について冷静に分析しており、大変勉強になった。iPS細胞で真っ先にイメージされる再生医療の分野では、海外のES細胞が大きく先行しており、間葉系幹細胞という別の細胞も研究が始まっていて、iPS細胞は発展途上ということであった。

 

またiPS細胞は再生医療だけでなく、病気のメカニズム解析、予防、薬の開発、副作用の分析など医学のあらゆる面で応用が可能とのことなので、その射程の広さにも改めて驚かされた。

 

医学の実態も垣間見ることができた。ネズミ→ヒト、基礎研究→応用研究、安全性、有効性のテストを経てようやく臨床の場にたどりつくのが正規のルートらしく、私たちが利用できるまでには膨大な時間と労力がかかるのだ。しばしば基礎研究における新発見のニュースなどを見て気持ちが喜んでしまうのだが、それはあまりにも時期尚早ということがよくわかった。

 

最後に一つ。医学を始めとした自然科学の世界はまさに役に立つ研究がたくさん並んでいるのだが、人文・社会科学系は個々の人間や社会に一体どのような成果をもたらすことができるのだろうか。「役に立つか否か」という功利的な視点だけではいけないが、無批判でふんぞり返るのもよろしくないので、厳しい自己点検が必要ではないかと思われた。