野内良三『日本語作文術 - 伝わる文章を書くために - 』(中公新書、2010年)
野内良三は高知大学や関西外国語大学で教授を勤め、フランス文学やレトリックが専門。
本書は「実用文」の書き方を教えてくれる1冊である。実用文とは「文系、理系を問わず、実務、職場、学校、学術など多様な場面に対応できる汎用性の高い文章」である。要するに、他人が読んで意味のわかる文章の書き方を教えてくれるのである。
本書はかなり歯応えのある本で、一読しただけでは凡才の私には到底理解し得ないものであった。「日本語ネイティブだけどこんな風に日本語を捉えたことがない」「こんなに奥深い言語だったのか」「今まで自分が書いてきた文章は一体何だったのか」とレベルの高さに打ちのめされている。ここでもまた帰納法や演繹法など私の脳が拒絶反応を示すワードが立ちはだかる。
文章や書くことについて心構えからまず説いてくれ、その後に基本のテクニック、応用と進み、練習問題や語彙集なども付いていて、初心者はもちろん玄人が復習に読むのにも適しており、大変親切な作りになっている。
本書1冊から得た知識や技術は、学生時代に受けた国語や小論文などの授業よりもためになった感覚があり、非常に満足している。美文や名文を作るというよりも悪文を退治して文章の質を安定させ、再現性も高めて平均値を上げる技術で、凡才にも真似がしやすい文章作成法だと感じる。
本書が説く「実用文」は美文や名文とは必ずしも一致しないようだが、「実用文」という一観点に振り切った極端な例は思考をシンプルにしてくれて大変参考になる。私は今までは我流で書きなぐるだけで、レシピもなく目分量で料理してお客様にお出ししていたようなひどいあり様だったので、ようやく恥ずかしくない料理を出すための修行が始まった気がする。今までは一体何だったのだろう。
Instagramで読書感想文をアップし始めてから5年ほど経ち、短くはあるが一定の量の文章を書くようになって、「思う通りに書けない」「意味のわからないキャプションばかり量産してしまう」と悩み苦しんで来たので、年度が変わるこのタイミングで一念発起、体系的に作文の勉強をしようと思い立ったのであった。
この一念が最初に起こるのはずいぶん前のことで、大学時代に最初に課されたレポートの書き方が全然わからなくて愕然としたのが全ての始まりである。筋のとおった意味のある文章が全く書けず、さらには「考察」のなんたるかも知らずに感想を書いてみたり、ととにかくひどい出来で、教官から苦言というか呆れた指摘を受ける始末であった。
センター試験のように虫食いの穴を埋めたり、4択から選んだりするような、書かれた文章に反応する力や文章を読む力は鍛えられているものの、それは単に記憶力の問題で、「自分は適切な意思表示ができないんだな」と恥ずかしく思ってから、作文は心の中にずっと引っかかっていた。
さらに、社会人になって営業職として働いてみて、日本語が操れているかの違いによって結果や成果に大きな差が付くことも体感した。メール一本にしても人によって千差万別で、不思議と全てが円滑に進むものと返信すらないものがあり、自分なりに色々と研究した。
恐ろしいことに「さすがにそれはないやろ」というような、句読点がおかしかったり、意味の通らない文章で綴られた企画書や提案書に遭遇することがあり、そしてその悪文で契約不成立になったり、提案すら聞いてもらえずバッサリいかれたりするケースを幾度となく見てきて、「作文能力」「文章力」の重要性は身に染みて理解し、長年の課題として温め続けてきた。
今回は野内に打ちのめされることとなったが、今まで上がらなかった重い腰を上げて講義を受けにきたことは評価したい。日本語の恐ろしく広い海原が前方に広がっている。
年始からプラトンを読んでいるプラトン脳の私からすれば、作文術は「ソフィストの弁論術やんけ」と少し斜に構えてしまっているので反省したい。
日本画と庭園を求めて|足立美術館
どちらかと言うと、「日本庭園」というより「Japanese Garden」と言った方がより正確かもしれない。足立氏がこだわり抜いた庭園は手入れが行き届いており、どこから見ても美しく隙がない。私はもっとこじんまりとした素朴な方が好みなので、少々華美な印象を持ったが、館内に併設されている喫茶室などからゆっくり眺めれば、日常生活で急きたてられた心もきっと落ち着くことだろう。館内の案内ポスターには庭園の春夏秋冬の写真が載せてあったが、春の新録の季節から秋の紅葉、冬の雪景色までどれも捨てがたく、季節ごとに足を運んでみたいと思わされた。
【購入本】岩波書店版『プラトン全集 全15巻』などなど
最近買った本たち。
田中美知太郎、藤沢令夫『プラトン全集 全15巻』(岩波書店)
ジュリアナ・アナス著/瀬口昌久訳『1冊でわかる 古代哲学』(岩波書店)
ジュリアナ・アナス著/大草輝政訳『1冊でわかる プラトン』(岩波書店)
などなど。
目玉は何を隠そう、岩波書店の『プラトン全集 全15巻』である。
「2023年は哲学を勉強する!」と心に決めて年始からプラトンをポツポツ読み進めているのだが、岩波文庫や講談社学術文庫など文庫版で出ているものはほとんど読んでしまったので、読書原理主義者の行き着く先は全集である。
物理的にも内容的にも物凄い圧である。今年中には読破すると宣言しておく。(しないとインテリアになってしまう)
副読本としてプラトンの入門書も色々と買い進めている。
気になっているのは、Oxford University PressのVery Short Introductionシリーズの邦訳2冊。このシリーズは本当によく売れるシリーズで、今回入手した邦訳版『プラトン』も『古代哲学』も入門書とはいえどちらも要求されるレベルはかなり高いと思われる。
出雲大社と熊野大社
先日、出雲大社に初めて参拝してきた。
日本が誇る有数の神社であるため、礼を失したり思い残したりすることが無いように、事前に『出雲国風土記』を始めとして10冊ほど出雲大社に関する書物を読んで予習し、準備万端で参った。
意気揚々と鳥居をくぐり、立派な社殿の数々、評判の大しめ縄など見るべきところは一通り見て回ったのだが、事前の期待とは裏腹に「大きい」以外にどうも印象に残らない神社であった。挙句の果てには、大社背後にそびえる禁足の山に興味が移る始末である。
社格や歴史は誠に申し分ないのだが、なぜこのような印象になってしまったのであろうか。
あの素晴らしい大社がさほど自分の心を動かさず、印象に残らなかったことが非常にショックで、その後の旅の道中はずっと考え込んでしまった。
皇室とも関連が深く、『日本書紀』『古事記』に綴られる神話の一翼を担うほどの神社が何故平凡に映ってしまったのだろうか。
事前に予習してから詣でたのだが、記紀に綴られている出雲神話がツギハギで、非常にいい加減なものとして映ってしまったからであろうか。
平時は神々への信仰などまるで無いような観光客がこの時ばかりはと好き勝手にお願いをぶちまけているのを見て興ざめしてしまったからであろうか。
飛行機、バスを乗り継いで来たため、昔の参拝客のように自分の足で歩いて参ったという体験が不足していたからであろうか。
奈良の法隆寺を訪問した際に感じた柔和さ、屋久島の山中に分け入って屋久杉を見た時に感じた力強さのようなものをまるで感じなかった。出雲大社には何かが圧倒的に不足しているように思われたし、私の方も大変な準備不足で、大社から何かを感じ取るだけの感度が磨かれておらず、得るものが少なかったのは大変残念であった。
残念ながら「聖域」に足を踏み入れた感覚は皆無であった。
大社東側に併設されている博物館も収蔵品が小粒で期待していたほどのインパクトはなかった。九州国立博物館にて先日まで行われていた特別展「加耶展」で上位互換を見てしまった後だっただけに余計見劣りした感がある。
その一方で、島根県東部、松江市の南、JR松江駅からバスを乗り継いで40分ほどの山中にある熊野大社は実に素晴らしいものであった。
意宇川中流域に位置し、出雲大社に比べると参拝客も少ないマイナーな神社であるが、『出雲国風土記』によると意宇群は出雲国国造一族の本拠地があった土地で、熊野大社は出雲大社(杵築大社)創建前から存在しており、古代出雲国の生活に根差した信仰、土着の信仰を現代に伝える神社であると言ってよいのではないだろうか。
出雲国が大和朝廷に服属した後は大国主神を奉った出雲大社が大きく発展を遂げ、出雲国内の信仰のありようも大きく変容し、熊野大社のかつての勢いは見る影も無くなってしまったようだが、現地に降り立ってみると、静寂の中に山や川の力強いエネルギーをふんだんに感じることができる。
私には熊野大社の方が作られた感じがせず、その素朴で静かな落ち着いた雰囲気と人間の煩悩を感じない清らかさに非常に好感を持った。私は昔から一理屈こねないと済まないタイプなのだが、熊野大社には素直に頭を下げよう、お祈りしようという気持ちにさせられた。じーんと胸に来るものがあって、スピリチュアルなパワーを感じることができた。
目を閉じれば、治水や豊穣を祈ってここに神を奉り、折に触れて詣でたであろう古代の人々の様子がありありと浮かんでくるようであり、大変気持ちの良い神社である。「聖域」と呼ぶにふさわしい。
筆の進むままに任せて更に妄想を膨らませ、口を滑らせてみると、どうも出雲大社はその位置する場所的にパワーやエネルギーを感じないのである。書物で調べ、実際に訪れてみて、出雲大社は人間が政治的理由から何の根拠もない土地に建てた(と私には思われた)ためその土地に神が宿っておらず、ただの後発地域・観光地としか言えないのではないのだろうか。
現に県庁所在地のある松江は、もともと土着の神々が居て古代から栄えていた出雲国東部であるし、山や川といった大地は神と崇められるまでの恐るべきパワーやエネルギーを持っており、それに沿って人の生活が成り立ち、人の往来や町の盛衰、つまり空間が規定されるという力関係、上下関係が働くのではないだろうか。この自然の大いなる力については人の思惑や計画ではそうそう変えることはできないのである。
今回の飛行機のフライトで福岡から出雲までを上空から眺める機会に恵まれたのだが、ほとんどが山(森林)で、人間は海と山の間にあるほんの少しの平野部分に密集して住んでいることを肌で実感し、ますます大地のパワー・エネルギーと人間の営み・生活の関係について興味が深まった。