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生活の中で得た着想や感想

『現代思想 2022年11月号 特集・ヤングケアラー』(青土社、2022年)

現代思想 2022年11月 Vol. 50-14 特集・ヤングケアラー』(青土社、2022年)

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さて、何から書いたら良いものやら。スーザン・フォワード『毒になる親』(毎日新聞出版)を読んでいる時もそうだったが、辛く悲しく退屈な記憶にダイレクトに分け行っていくことになるため、かなり精神的に消耗する。

まだ自分の中でも整理がついていないのだろう。いや、きっとつくことはないのだろう。過去を無くすことは不可能であるため、どう付き合っていくかというステージ。私を構成するかけがえのない要素として、私のアイデンティティとして前向きにとらえていくステージに来ているのだと思う。

「ヤングケアラー」という名前がついて、最近ようやく認知度が上がり、関心が向けられるようになってきたと思う。ただ、社会がこのように啓蒙されのっそりと動き始める間に、私は「ヤング」からすっかり外れる年齢になってしまい、ついぞ何の支援も受けられずにここまで来てしまった。この界隈にはもう存在しない、視界に入らないただの「ケアラー」になってしまった。

 

後は「大人だから頑張って」と言われる残酷な世界である。「ヤングケアラー」だった時も「家族のことは家族が」と言われて見放されていたが。名称とは観察者からすれば意味があることだと思うが、当事者からすれば直面する厳しい現実には何ら関係のない玩具である。

ヤングケアラーの権利を認めようとする動きは良いことだと思うのだが、「権利がある」と確認することがそのまま「支援を受ける」「解決に向かう」ということではない。この雑誌に載っている論文はヤングケアラーの研究や支援の最前線のものであると思われる(学会誌や紀要までは追えていないし、査読の有無による論文の質云々も私にはわからない)が、最前線にしてこの水準ならば、行政や教育機関の認識や具体的な施策はまだまだ低い水準であろう。ようやくスタート地点に立ったあたりで、先は本当に長いなと感じられた。

子どもが自分よりはるか歳上の面倒を物理的、精神的の両面から見るとは一体どういうことなのか。

私は「老い」の恐ろしさ、残酷さを身を持って知った。育児には育児ならではの大変さがあり、容易に比較できるとは思っていないが、決定的に違うと思われるのは、ケアにおいては「良くなる」ということがほとんどなく、基本的には下降線をたどり、せいぜいできるのは現状維持か低下の度合いを和らげることだけ、ということである。無力感や虚無感、徒労感、罪悪感、疚しさに長期間絶えず襲われ続ける。

 

制限を受け続けることで思考や行動パターンも大きく影響を受け、「自分の人生を生きる」意欲や力が失われる。バルザックの言う「諦めという日常的な自殺」が日々行われる。

ケアされる側は助けてもらえるが、ケアラーは一体誰が助けてくれるのか?

私は自分が引き受ける覚悟をした。袋小路。背水の陣。自分が破れれば全てが終わる。静かに闘い、静かに散っていこうと決めた。誰が悪いわけでもなく、本当に「どうしようもない」のが厳然たる現実なのである。

 

自分が決めてやっていることなのだから、他人から「かわいそう」とか思われたくない。でも「助けてほしい」「なぜ私だけ」「わかってほしい」。

家族とは呪縛である。愛とは呪いである。私は静かに穏やかに生きたい。ただそれだけを願っている。